ナイチンゲール物語
ナイチンゲールというと、一般的にはクリミア戦争で献身的に看護する白衣の天使のイメージが強いかと思います。
1820年イギリスの上流階級に生まれた フローレンス・ナイチンゲールは、超お嬢様として、知性と教養を身につけ、17歳で社交界にデビューし注目を集めたのでした。
しかし、ある時神の声を聞き、 神に仕えるように命じられたそうです。22歳の時に、隣り村の貧しい農村小屋の、貧困、不安、病気の悲惨な状況を改善したいと思いました、それは単にお金を施すのではなく、教育や生活環境を整えることなどを考え、実行させてもらえるように両親に懇願したそうです。
しかしお嬢様にそんなことは許されず、ロンドンの社交界へとつれもどされるのです。
フローレンスは子どもの頃からどこか普通の子どもと違ったところがあり、自分が自分らしく存在することを求めてやまない自我を持っていたそうです。
*お嬢様の生活を想像することは経験がないので難しいのですが、 自分らしく存在すること」を求める彼女はまた、 相手の「その人らしさ」を尊重したのではないかと想像します。
農村小屋での経験は、フローレンスをある一つの思いに傾けていきました。どのようにすれば貧窮者や病人に本当に明るく人間的な暮らしを提供できるかという問題です。
そして1845年25歳のフローレンスは病院で働くために病院に研修に出してほしいと訴えたのでした。
その頃の病院は不衛生で不道徳、看護師は最下層の極貧者で知識も技術もなかったのです。そんなところに超お嬢様が出してもらえるわけもなく、なんとそれから8年間ものあいだ、一人では家から出してもらえなかったのです。
社交界でも人気のあったフローレンスは付き合っている男性もいました。(付き合っているといっても、現代のお付き合いとは違うと思いますが。)
家族からも祝福されるその男性からプロポーズされるのですが、フローレンスは断ります。
なぜなら、その男性との結婚はさらに社交界に縛られ、本来自分がやりたいことからさらに遠くなってしまうからです。
*なんとも意志の強い女性です。私だったら、結婚しちゃいます。その頃の私は看護の素晴らしさに気づいていませんでした。(看護学校の先生ごめんなさい。今思うと素晴らしい看護教育でした。それなのに、授業中寝てばかりの生徒でした。)
フローレンスが家族からの抑圧生活から脱出したのは、1953年のことです。
恵まれない境遇にある貴婦人が入る「淑女病院」での総監督という職を手に入れたのです。8年の半ば軟禁生活の間もフローレンスは勉強を続けていました。そして、その成果を淑女病院の改革という形で表出したのです。
1、ナースコールの発明
2、エレベーターの設置
などにより、看護師が合理的に、無駄なく動くことができるようにしたのでした。ナイチンゲールといえば『白衣の天使』『犠牲の精神』というイメージが先行していると思いますが、実際のフローレンスにはそんなセンチメンタルな考えはない人でした。
彼女はむしろ、いかなる献身も自己犠牲も、それが組織化されない限り無益であることを痛いほどよく知った人でした。
*これがナイチンゲールが本当にすごいところだと思うのです。フローレンス・ナイチンゲールのこの冷静な判断力と強い行動力、これは私達が手本としたいところの一つなのです。
ナイチンゲールを一躍国民の英雄にしたのは、クリミア戦争、スクタリの兵舎病院での活躍です。
1854年フローレンス34歳の時です。英仏連合軍はロシアに戦線布告し、クリミア半島に攻め入ったのですが、コレラが蔓延し、負傷兵は黒海をはさんだ対岸のスクタリの病院に200人単位で送られました。
そのスクタリの兵舎病院の悲惨な状況は歴史上初めての従軍記者ウィリアム・ハワード・ラッセルによって本国の新聞に報じられます。そこで、フローレンスはスクタリへ向けて看護団を結成します。
病院経験のある職業看護師14名と宗教団体の関係者(主にシスター)24名を組織して、10月21日スクタリへ出発しました。この時ナイチンゲールは彼女達を自己が考え抜いてきた看護に実現に向けて教育・訓練するという困難な仕事をも同時に背負い込んだことになりました。
しかし、もしこの試みが成功すれば、看護という仕事の持つ真の意義を世に広く知らせることができるわけで、ナイチンゲールにとっては絶好の機会でもあったのです。
( 引用文献:ナイチンゲール看護論入門 現代社 金井 一薫)
*淑女病院での看護実践をスクタリの悲惨な兵舎病院でさらに実践することで、看護の力を示そうとしたわけです。すごい人だと思います。コレラが蔓延し、汚物にまみれた環境、死亡率42.7%という状況に自ら進んで行こういうこと自体がすごいことです。
クリミア戦争における、フローレンス・ナイチンゲール率いる看護団の成果です。
1、兵舎病院の死亡率引き下げ。 42.7% → 2.2% (半年後)
2、兵士達を人間として甦らせた。
1に関しては、病院中を掃除して、換気によりきれいな空気をいれ、暖かな食事と飲み物を用意し、と徹底した、生活環境の改善を行うことで成果を挙げました。
2に関しては、下層民で構成された兵士達を一人ひとり、人間として尊重しました。死にゆく人はけして一人にしないという信念の元に看取り、健康を取り戻した兵士のためには学校(教育の場を作る)を建て、図書館(酒と売春婦に走るのを防ぐために娯楽施設を作る)を作り、郵便局(送金システムの確立)まで開設したのです。
生活を整えるということ、その人らしさを尊重して持てる力を伸ばすこと、看護の基本です。
それをクリミア戦争の兵舎病院で見事に実証したのでした。病気の発症や病状の悪化は、生活環境によることが大きいということがよく分かります。当たり前に、清潔で整頓された部屋で暮らし、洗濯されたこざっぱりとした服を着て、暖かなご飯を食べ、お風呂に入りきれいになり、気持ちよく眠ること、この繰り返しがいかに大切かということです。
そしてさらには、人が、人として尊重されること、これも認識(精神・心)に大きく左右される人間にとってはとても大切なことなのです。
*当たり前のことをこれほど見事に実証したフローレンス・ナイチンゲールはエライ!
1856年、スクタリの兵舎病院を閉鎖し、フローレンスも帰国の途に着いたのです。
イギリス中の歓迎と賞賛の大騒ぎを避けて、偽名を使ってこっそりと帰ったそうです。
彼女の頭の中には、兵舎病院でなくなった数千の兵士達を思い、これから自分がしなければならないことで頭がいっぱいだったのです。
それは、英国陸軍の健康管理体制作りの仕事です。
クリミアでの極度の心身消耗状態を残したまま、フローレンスは次の仕事にかかったのです。
陸軍省の組織機構改善の仕事で、英国陸軍兵士の置かれた生活状況の改革でした。
*生活状況の改革、やはり生活が基本なのです。日々の生活を整えることの重要性をナイチンゲールは教えてくれます。
クリミア戦争から後のフローレンス・ナイチンゲールです。
まずは、英国陸軍の医局の改革、そして病院管理の改善です。
スクタリの兵舎病院の経験から、適切な通風と暖房と明るさ、そしてきれいな水、栄養のある食事、の重要性を陸軍に働きかけ兵舎と病院を改善することで、死亡率を1/2に引き下げました。
もう一つの大きな仕事は看護師教育です。クリミア戦争でのナイチンゲールの功績に多額の寄付金が寄せられ、それを基に1860年、ナイチンゲール看護学校が開校しました。
この学校は看護師を訓練することができる看護師の養成を目的としていました。
優れた人格の持ち主であるという証明がなければ入学できなかったそうです。
1年間の教育期間、学生達は「ホーム」に暮らし、厳格な訓練と規律ある日常の中で、本物の看護を身につける訓練をしたのでした。
*私は看護学校の寮に入り、厳しい規律のなかで、寮と学校を行き来する毎日でした。親元を離れて、歩き方一つから教えられる厳しさに正直びびりました。しかし、今思うとそのどれもが看護に通じる教えだったと思います。そして、厳しい規律は、反対に気持ちよく集団生活を行うにはとても暮らしやすく必要なものだったと思います。
フローレンス・ナイチンゲールの功績はまだまだあります。
一つには公衆衛生活動があげられます。当時イギリスの植民地であったインドの公衆衛生活動をします。灌漑用水を引き、死亡率を引き下げます。
また、かの有名は『看護覚え書』で主婦達を啓蒙します。そしてフローレンス・ナイチンゲールは優れた統計学者でもありました。
クリミア戦争の時には『鶏のトサカ』といわれるグラフで死亡率を示したことは有名です。ナイチンゲールは記録の重要性を説き、統計情報を集めることで、説得性のあるプレゼンテーションを行い、行政をも動かしていったのです。
*『看護覚え書』は看護学校の1年生の夏休みの宿題でした。その頃の私といえば、看護とは先端の医療の中で最新の知識と技術をもって医療の中にいることが看護だと思っていました。看護覚え書に書かれている事は当たり前で古臭いと感じました。『看護覚え書』を思い出したのは、訪問看護を始めて1年がたった頃でした。生活が整わなければ、薬も効を得ず、意欲が低下し、生活が乱れ、症状が悪化する。そんな状況を目の当たりにした時に、ナイチンゲールの言葉が20年を経て自分の中に鮮やかによみがえりました。
フローレンス・ナイチンゲールは70歳半ばまで仕事に打ち込んだそうです。
晩年のテーマは「町や村における健康教育」で訪問看護師の育成やホームヘルプの組織を作りました。
晩年のナイチンゲールは、甥や姪、看護学校の生徒や卒業生が出入りし、にぎやかで幸福に暮らし、1910年90歳の生涯を閉じたのでした。
フローレンス・ナイチンゲールが生きた時代は、格差の極めて大きな時代でした。
彼女は国民の3%の上流階級のお嬢様でした。そのことは、世論を動かせる立場にあったということと、周囲に有能な人脈をもっていたので、当時下層階級の人々に担われていた「看護」に光を当てる事ができたのです。
*看護師は今でこそ、社会的な評価と地位を得ていますが、これはすべてナイチンゲールの情熱と努力に始まり、その後先輩達がコツコツと築き上げてくださったものです。先達のその姿は本当にあこがれと、尊敬の念に値するものです。そして、今日も病院で、在宅で、施設で、と多くの現場で笑顔と暖かな手と確かな目で看護をする人たちのなんと頼もしいことでしょう。その端っこで、私もお役に立ちたいと、起業しました。
訪問看護を始めて、ナイチンゲールの『看護覚え書』に書いてあったことが、いかに重要なことかを知りました。
そして、数年後、横浜市訪問看護ステーション連絡会の研修で日本社会事業大学の金井一薫教授のお話を聞く機会がありました。
金井先生はナイチンゲール看護の研究一筋30年。日本の看護界が、アメリカ看護に向いている時にもナイチンゲールだけを追い求めてきたのです。
その言葉には強い信念と情熱が込められていました。それは、生活を整えることの大切さと、それこそが看護の真髄であること、そして、介護職との協働など、その頃私が考えていたことを理論立ててお話してくださいました。それがKOMI理論です。
ヘルパーステーションを作って数年、介護職に介護の理論を持たせたいと思っていました。介護福祉士という国家資格でありながら、その専門性を理論を持って言う事ができない状況に悩んでいました。早速、金井先生に連絡を取り、ご指導いただくことになりました。
それから、早4年。当初考えていたような全員一斉での取り組みはできませんでしたが、確実に成果は出てきて、ヘルパー達が自信を持って楽しく介護に取り組めるようになって来ています。
KOMI理論とナイチンゲール看護に興味のある方はこちらに。
http://www.komi.gr.jp/
※注 参考文献 『ナイチンゲール看護論入門 』 現代社 金井 一薫著

